
母の借金を全額完済し、母の方が私を拒絶し始めたことで、私はようやく22年におよぶ冷たい檻から解放された。そう思っていた。幼い我が子と手に入れた、待ち望んだへいおんな暮らし。
だけど、運命は神様がいないのかと思うほどの、容赦なく私に牙をむいた。
やっとつかみかけた穏やかな日常の中で、私たちは激しい自然災害に見舞われたのだ。
帰宅途中、自宅付近がレスキュー隊員や車が複数台来てる。道路も川のように水しぶきがたってる…
そう、勤務中激しく打ち付ける雨により、みるみるうちに水位が上がり、私たちの家は床上浸水という被害を受けていたのだ。
今日の朝までそこにあった家具も、思い出も、生活のすべてが泥水に飲み込まれている。
(どうしてわたしばかりが、こんな目に遭わなきゃいけないの?)
絶望で目の前が真っ暗になった。モノだけでなく、これまで必死に積み上げてきた生活の基盤まで、一瞬にして奪い去られた。私は、人としての持ち物をすべて失い、「本当のゼロからの出発」を余儀なくされたのだ。
その最悪のどん底で、私に手を差し伸べてくれた人がいた。
面会交流を通じて、細々と交流を続けていた元夫だった。
「大変だったな。落ち着くまでうちに来ればいい」
家を失った私たちを心配し、元夫は同居を提案してくれた。泥水のなかで途方に暮れていた私は、その言葉にすがるように、幼い子供を連れて元夫の家へと身を寄せた。
けれど、一度は離婚を選んだ関係だ。離れていた時間が長かったこともあり、やはり昔のようには打ち解けられなかった。
張り詰めた空気、どこか遠慮してしまう自分。元夫には感謝してもしきれない。だけど、私の心の奥にある本能が、静かにアラートを鳴らしていた。
(誰かによりかかったままじゃダメだ。私は、私の力で、この子を守る場所を作らなきゃいけない)
私はそこから、泥を払うようにして再び動きだした。
貯金をかき集め、必死で賃貸物件を探し、ついに自分名義の新しい借家を契約した。
引越しの日、新しい部屋のカギを握りしめた時、私は人生で最も大きな「決断」をした。
この日までに、買い直した車、新しい新居。
これらを、私は母をはじめとする「家族」の誰にも教えないと。
ただ、唯一お姉ちゃんのLINEだけを、かすかな血縁の糸として残しただけ。それ以外のすべてのルートを、私は自分の手で、永遠に遮断した。
これは、逃げじゃない。
私が私の人生と、私の大切な子供を守るための、完全な「決別」だった。
あれから、また新しい時間が流れた。
今では、この新しい家での生活にもすっかり慣れ、私たちは驚くほど穏やかで、普通の毎日を過ごせている。
世間を見渡せば、おじいちゃんやおばあちゃんに囲まれて、楽しそうに笑っている家族の姿が目に入る。
そんなとき、ふと思うことがある。
「この子には、おじいちゃんもおばあちゃんも居ないんだな」
親として、子供にそんな寂しい環境を選んでしまったことへの、小さくてチクリとした罪悪感が胸をよぎることは、今でもゼロじゃない。
だけど、それ以上に。
今の私たちには、あの家で毎日のように浴びせられていた理不尽な罵声も、夜中の草むしりも、全裸で外に閉め出される恐怖も、自分で稼いだお金をむしり取られる絶望も、何ひとつ存在しない。
誰の顔色を伺う必要もない。誰の不機嫌に怯える必要もない。
私の心も、体も、そして私の大切な子供の未来も、ここでは100%自由に、安全に守られている。
━━いま、私の横では、我が子が何に怯えることもなく、夜はスヤスヤと穏やかな寝息を立てて眠れる。
かつて小学4年生の私が、雨の山道で血を流しながら「普通の女の子になりたい」と泣いていた、あの日の罵声の正確な言葉は、もう今の私には思い出せない。
私の感情は、あの家には必要なかったかもしれない。
だけど、いま私が生きているこの優しい世界には、私の感情も、私の流す涙も、私の笑顔も、全てが必要で、愛おしいものだ。
わたしは、22年かけて、自分の人生を、自分の手で完全に奪い返した。
もう、誰も私たちの自由を奪うことはできない。
(完)
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